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雑記帳
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大東亜戦争ニュース・2015/ 12・11 10・9
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大東亜戦争ニュース・2015/6
2014・9・29 ユーチューブ 必見 
ポツダム宣言を現代語訳してみた
「コメント」
ナシ
2014・7・2 ユーチューブ 
【KSM】誇りある「大和魂」を目覚めさせる言葉集。こんなにも日本は愛されている
大東亜戦争を知る前に上の動画を確認頂きたい。
大日本帝国が大東亜戦争を戦った理由が明確になっている。
2015・6・30 ZAKZAKby夕刊フジ 
【朝日新聞研究】慰安婦の特別視は日本に対する「偏見」「差別」「迫害」
「記事内容抜粋」
安倍晋三首相が、米上下両院合同会議で演説(4月29日=日本時間30日未明)して間もない5月4日、欧米を中心とした日本研究家が、日本の歴史問題についての 「偏見のない清算を」 と呼びかける共同声明を発表し、安倍首相に大胆な行動を求めた。
朝日新聞は5月8日の紙面で大々的に取り上げ、声明の全文を載せている。
中略
軍隊と性の問題は、現在においても厳然と存在する、普遍的な問題であることが良く分かる。
しかも支援物資を与える見返りに、性的関係を要求するというのだから、明らかな強制であり、慰安婦に比較して、はるかに悪質ではないのか。
しかし、朝日のこの記事には、慰安婦のことはまったく出てこない。
 
朝日新聞は全く反省していないのである。
日本政府は朝日新聞に罪を問わないのか? 朝日新聞の罪は一人二人殺した殺人者より罪が重いと思うのだが・・・
2015・6・30 産経WEST 加納裕子  【戦後70年】  一読の価値あり
血に染まった乳母の顔、銃弾・砲弾の嵐…西宮在住ラストエンペラー血族の回想「多くの人に守られ生かされた」
「記事内容抜粋」
ラストエンペラーとして知られる清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ、1906~67年)とともに満州で終戦を迎えた血族が兵庫県西宮市に住んでいる。
溥儀の実弟である溥傑(ふけつ、1907~94年)の次女、福永●生(こせい。●=女へんに雨、その下に誇のつくりで大を取る)さん(75)。
戦後70年を迎えて戦争の記憶が風化し日中関係が複雑さを増す中、「人と人との真心の交流を大事にしてほしい」 と訴えている。
  満州国崩壊 石投げられ、唾吐きかけられ、目の前で多くの命失われた
  鮮血で染まる顔、折り重なって守ってくれた人々
  愛によって再生した一族の物語、伝えていくことが大事
中略
福永さんは取材に対して穏やかだが、凛とした表情で語った。
「私どもは政治や経済とは全く関係ありません。心と心の交流こそが一番確かで信頼できると思うのです。父と母の『相依為命』ではありませんが、お互いに思い合って支え合って生きていく精神が広まれば、戦争は少なくなると思います。次の世代の方にも心と心の交流を続けていってほしいのです」
 
この記事、産経しか書かないだろう。
2015・6・29 産経ニュース 聞き手 岡部伸  必読記事
ヘンリー・S・ストークス(1)日本は白人支配からアジアを解放した
「記事内容抜粋」
    □元ニューヨーク・タイムズ東京支局長
  〈半世紀にわたり日本に滞在、日本外国特派員協会で最古参だ。著書「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社)は、「在日外国人記者がはじめて書いた正しい近・現代日本史」(評論家の宮崎正弘さん)などと話題を集め、出版依頼が相次いでいる〉
多くの読者の皆さまに感謝します。「東京裁判は勝者の復讐(ふくしゅう)劇にすぎない」「いわゆる『南京大虐殺』はなかった」と世界の既成概念に欧米人で初めて挑戦したことに興味を持っていただいた。ただ私は歴史に対して公平でありたかったのです。
  〈初めて日本に来たときは、戦勝国史観に立ち、「日本は悪かった」「東京裁判は正しく、南京大虐殺はあった」と信じていた〉
滞日が長くなるにつれて、霧が晴れるように米国が押しつけた歴史観が誤りであることを悟り、歴史的真実がどこにあるか認識できるようになりました。
皆さんも反日国家のプロパガンダに惑わされず、歴史の真実を知って、日本が誇りある国になってほしい。
中略
  〈欧米人にも同じ主張をする同志が出てきた〉
米国人ジャーナリストのマイケル・ヨン氏は私の著書を読んで確信を持ったようです。
弁護士のケント・ギルバート氏も賛同してくれました。
特派員の後輩たちも続いてくれることを期待します。
 
日本人は何時、目覚めるのか? こう言う人格者が日本を応援しているのに・・・
2015・6・28 産経ニュース (1/2ページ)  【戦後70年】
小笠原・父島駐留の日常描く 旧日本兵が絵日記…恐怖と孤独に耐え「ただ故郷に帰る夢を見るだけ」
「記事内容抜粋」
太平洋戦争中、小笠原諸島の父島に駐留していた旧日本兵が当時の日常を描いた絵日記が、松江市の民家に保管されていることが分かった。
過酷な状況下の父島で「ただ故郷に帰る夢を見るだけ」などと漢詩で記したほか、自給生活を送る兵士の様子などが水彩画で詳しく描写されている。 
松江市西津田の安来久恵さん(74)宅で見つかった。
描いたのは父、利雄さんで、昭和19年3月、要塞歩兵隊の一員として島根県浜田市から父島に赴いた。 
絵日記には出征から帰還までが、画帳に25ページにわたり水彩絵の具で描かれている。
調べた阪急文化財団(大阪府池田市)の伊井春樹理事は「細やかに心境などが描かれ、当時の状況がうかがえる」と話す。
  過酷な状況つづる
 
産経新聞は何故、大東亜戦争、アメリカ戦と記さないのか? 戦後70年、何戦争から70年なのか? 旧日本兵が今の日本人のだらし無さに涙を流しているだろう。 愚か者!
2015・6・27 京都新聞 
浮島丸の悲劇、今こそ伝える 沈没70年、京都・舞鶴で追悼集会
「記事内容抜粋」
京都府舞鶴市の舞鶴湾で朝鮮人らを乗せた旧海軍輸送艦「浮島丸」が爆沈した事件(1945年8月24日)から70年を前に、舞鶴市民でつくる「浮島丸殉難者を追悼する会」が7月25日、「浮島丸事件70周年のつどい」を市内で開く。
出港地の青森県で追悼集会を続ける市民団体も参加し、事件を風化させることなく伝え、平和への思いを改める。
浮島丸は
強制連行を含む朝鮮人労働者や日本人約4千人を乗せ、韓国・釜山に向けて青森県大湊(現・むつ市)を出航、舞鶴湾に入って突然、爆沈した。
政府発表の死者数は549人だが、さらに上回るともされる。
爆沈の原因は定かでなく、祐天寺(東京都)に移された遺骨の返還も終わっていないなど、70年を経て、いまだに事件は解決せず、傷は癒えていない。
 
「強制連行」 事実なのか? 強制連行は吉田清治の造語だろう。
これが許されて、百田氏が叩かれるとはおかしいだろう。
日本は何処かが狂っている。
2015・6・25 産経ニュース 
京都にも空襲があった 上京区の住宅密集地に爆弾7発、109人が死傷 初の献花式
「記事全内容」
京都市の住宅密集地が空襲に見舞われた「西陣空襲」から26日で70年になった。
40人以上が犠牲になるなど大きな被害をもたらしたこの空襲を語り継ごうと、周辺の住民らが26日、現場近くの公園で初めて献花式を開き、花をささげて冥福を祈った。
昭和20(1945)年6月26日午前、京都市上京区の住宅密集地を米軍機が襲い、7発の爆弾が落とされた。京都府警の資料には死者43人、重傷13人など計109人が死傷したとある。
京都は大きな空襲は少なかったともいわれるが、それでも少なくとも5回、大規模な空襲があり、計300人以上が犠牲になったという記録も残る。
西陣空襲はその中でも最大規模だったとされる。
当時、国民学校6年生だった西川義明さん(81)は、母親と一緒に防空壕(ごう)に身を隠し、難を逃れたがシューっと爆弾が風を切る音と、爆撃後に周囲に遺体が散らばっている風景が忘れられないという。
西川さんは「若い世代にはこんな体験はしてほしくはない」と話した。
 ※御所があり、古都京都を売りにする京都だが、共産党を始め反日勢力が蔓延る理由は何なのだ! 献花式が初めてとは、京都の人々は薄情では無いのか?
2015・6・25 産経ニュース 編集長 蔭山実  【編集日誌】
戦争…歴史を振り返る視点
「記事内容抜粋」
沖縄戦の終結となった23日は「慰霊の日」。
それを機に、連載「沖縄 戦後70年」が始まりました。
追悼式典に参列した安倍晋三首相への怒号に、「涙がでる思い」の日に慰霊の邪魔をしないでほしいと語った参加者の視線の先には、ゆがんだ日本の戦後が見えるようです。
一方、イギリスでは、元英兵の捕虜が旧日本軍兵と握手を交わし、和解に臨んだ話題もお伝えしました。
映画「戦場にかける橋」で知られる、タイと現在のミャンマーを結んだ泰緬鉄道。
その建設現場で73年前に苦しんで以来、積もった憎しみから解放された末のことでした。
映画の原作はフランスの作家ピエール・ブールの作品ですが、ある翻訳本の解説に、戦争中の精神のありように洋の東西はないという趣旨の指摘がありました。
歴史を振り返るときの視点の一つといえるかもしれません。
 
日本政府は何か忘れてはいませんか? 大東亜戦争の総括である。
2015・6・25 産経ニュース (1/3ページ) 橋本昌宗 【激闘の地・硫黄島はいま(上)】  写真掲載あり 
壕内は60度を超える暑さ… 持久戦支えた縦横無尽の地下壕のすさまじさ
「記事内容抜粋」
昭和20年2月に米軍が上陸し、日米合わせて2万人以上が戦死した硫黄島(東京都小笠原村)。安倍晋三首相が4月末に米国を訪問した際の米上下両院合同演説の中で、当時米海兵隊中尉として戦ったローレンス・スノーデン海兵隊中将と、日本軍の硫黄島守備隊司令官だった栗林忠道中将の孫、新藤義孝衆院議員を紹介したことでも知られる。
普段の立ち入りは認められていないが、今月14~16日、年に一度行われている旧島民の訪島事業に同行し、70年を経た激戦の地のいまを取材し、当時に思いをはせた。
  繁栄謳歌(おうか)した南洋の島  18キロにも及ぶ地下壕  「奥にいかないように。出てこられなくなる」
中略
栗林中将は玉砕覚悟の「バンザイ突撃」を禁じ、地下壕の持久戦に持ち込んだ。
この壕で生活し、米軍の絶え間ない爆撃や艦砲射撃に耐え、飢えとすさまじい熱気にも耐えて戦った兵士たちのことを思うと、自然と頭が下がった。 
参加した旧島民らの中には、壕の入り口付近に水をまいて手を合わせる姿もあった。
 
大日本帝国は、大東亜戦争で最後にアメリカと戦争をしたが、帝国軍には多くの美談がある。
これらの美談こそ、帝国軍は規律正しい素晴らしい軍隊だった事を物語っているのである。
日本人よ、誇りを持ち、アメリカとシナ、韓国が主張する嘘に負けてはならない。
2015・6・24 産経ニュース 
沖縄戦70年 「悲劇」繰り返さぬ努力を
「記事内容抜粋」
沖縄戦の終結から70年の慰霊の日を迎えた。
最後の激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園では、全戦没者追悼式が営まれた。
大戦末期(昭和20年4~6月)、沖縄本島に上陸してきた米軍を迎え撃った戦いは、凄惨(せいさん)を極めた。
沖縄戦とは、国民が決して忘れてはならない「日本の悲劇」である。謹んで哀悼の意をささげたい。
日本の軍民は、18万8千人が亡くなった。
旧制中学、師範学校などの生徒による鉄血勤皇隊や高等女学校の女生徒によるひめゆり部隊の戦死者が含まれる。
米軍の戦死者1万2千人を合わせ、日米で20万人以上が命を落とした。
沖縄を守ろうと、若者らが操縦する陸海軍の特攻機2571機が出撃した。
最大の戦艦「大和」も沖縄へ向かったが、米軍の猛攻撃で鹿児島・坊ノ岬沖で沈み、多くの乗組員が戦死した。
中略
沖縄の重い米軍基地負担を国民が認識し、深く感謝すべきであることは当然だ。
一方で、沖縄を含む日本の安全保障に責任を持つのは政府である。 真の平和と安定のために必要なことは何か。
日本国民全員が真剣に考えなくてはならない。 
 
沖縄だけが被害を蒙ったのか? 広島、長崎、東京、大阪始め多くの都市で多く人命が失われた。
沖縄は返還されて以来、シナ、韓国同様、嘘で被害者ビジネスを行い、政府に集って来た。
誰の入れ知恵なのか? もう止めろ! 同じ日本人だろう。
沖縄が日本の危機を生み、日本を滅ぼしたいのか?
2015・6・24 産経ニュース 【戦争の記憶】
練習機での特攻命令、無謀な戦術に今も怒り 元徳島白菊特攻隊員・田尻正人さん(92)
「記事内容抜粋」
日本の敗戦が濃厚となった昭和20(1945)年4月初旬。
旧海軍航空基地(徳島県松茂町)で、徳島海軍航空隊の操縦員や偵察員ら約250人が基地の広場に集められた。
「白菊特別攻撃隊員を命ずる」。
航空隊司令から命令を受けた隊員の中に、田尻正人さん(92)=徳島市在住=の姿もあった。
同航空隊は本来、風向きや方位を計測し航路を誘導する偵察員を養成する訓練部隊だった。
しかし、戦況が厳しくなり特攻隊を編成することになった。
操縦員の不足で各地の航空隊や中国・上海の実戦部隊などから、次々と操縦員が集められていたのだ。 
当時の心境について、「特攻するのは分かっていた。命令があったとき、覚悟はできていたんです」と振り返る。
 ※92歳になるまで生き長らえたのだ。
怒りを捨て、生きた事への感謝と喜びを味わえばいいではないのか? 怒りは英霊に申し訳ないだろう。
不満もあるだろうが、今を生きている日本人は皆等しく、敗戦の口惜しさを背負い生きている。
だが、誰も先人達を恨んではいないのだ。
2015・6・23 産経WEST (1/3ページ)
餓島の慟哭(2)「まさに桶狭間だ」高まった士気が一転、この世の地獄 「なぜ連れて帰らなかった」耳を離れぬ家族の声
「記事内容抜粋」
5月25日、薄曇りの東京・千鳥ケ淵戦没者墓苑。身元不明の戦没者遺骨を納骨する政府主催の拝礼式で、この1年間に海外などから持ち帰られた2498人分が納められた。 
厳粛な雰囲気の中、臨席した秋篠宮ご夫妻が納骨堂に向かって拝礼された。
首相の安倍晋三も静かに花をたむけた。 
  「今日あるのは犠牲になった人のおかげ。供養するのは生き残った者の務めだ」。
ガダルカナル島戦の生還者、金泉潤子郎(96)=東京都板橋区=は、改めてかみしめた。
納められた中には、金泉が昨年9月、民間の遺骨収集団とともに訪島した際に収容された遺骨も含まれていた。
中略
高齢で杖(つえ)が手放せなくなったが、金泉は千鳥ケ淵の拝礼式だけでなく、毎年のようにガ島を訪れ、手を合わせる。
  「『受けた恩は石に刻み、かけた情けは砂で消せ』。いつもこう思っています」
あまりに重い記憶と向き合っている。
 
この思いは日本人だけが持つ崇高なものである。
嘘つきには分かるまい。
2015・6・21 産経ニュース (1/8ページ) 【戦後70年】 月刊正論6月号から転載 
謝罪マニアに告ぐ 「敗戦国」から脱却せよ 阿比留瑠比
「記事内容抜粋」
  「もはや戦後ではない」
経済企画庁(現内閣府)が経済白書にこう記述したのは昭和31年、今から60年近く前の話である。
当時の鳩山一郎首相の孫で、ルーピー(クルクルパー)と呼ばれた鳩山由紀夫元首相が政界を引退してからも、すでに随分たつ気がする。
昭和60年の施政方針演説で中曽根康弘首相(当時)が「戦後政治の総決算」を訴えてからも、はや30年が経過した。
あの時代を象徴したこの言葉も、もうあまり思い出されることもなくなった。
それなのに、日本はいまだに「戦後」という堅牢な枠に閉じ込められたままだ。
今年はメディアや国会で「戦後70年」が強調されており、戦勝国はお祭り気分ではしゃいでいるが、筆者はこの言葉を使うこと自体に抵抗を覚える。
中略
過去しか見ない人たちと、あるべき未来を見据えた人たちのどちらが国益に沿うかは論を俟たない。
未来は、過去を懐かしむ人のためにあるのではない。
これからを生きる人のものである。
 
日本の左翼は謝罪、謝罪、自分達だけで気が済むまで謝罪しろ! 日本が大東亜戦争に突き進んだのも、アメリカと日本の共産スパイの画策にある。
そして多くの濡れ衣を着せられた。
何のために謝罪するのか?
2015・6・20 産経新聞 【戦後70年】
戦艦「大和」元乗組員 命かけた仲間、忘れない 戦後70年…記憶の中に
「記事内容抜粋」
  「喜び勇んで大和に乗艦した友人の姿が忘れられません」。
戦艦「大和」が建造され、母港とした広島県・呉港を望む旧呉海軍墓地(長迫公園)。
若き日に、軍人としての基礎を学んだのもこの港だった。
戦後、港の近くに移り住んで60年。
91歳になった今、戦友らが眠る墓地を毎週訪れ、静かに慰霊を続けている。
大和元乗組員の広一志(ひろ・かずし)さん。
同県竹原市で生まれ、16歳だった昭和15年6月、海軍の呉海兵団に入団した。
同年10月、神奈川県横須賀市にあった海軍航海学校普通科に入り、信号兵の基礎を学んだ後、実戦訓練として巡洋艦に乗り組んだ。
その後、建造中だった大和に信号兵として配属が決まった。
中略
  「体は衰えるばかりですが、今は戦争の悲惨さを後世に伝えるべき立場。仲間のことを思えば、じっとしてはいられない」。
きょうも亡き戦友を思い、慰霊碑の前で心に誓う。(森西勇太)
 
シナ人、韓国人に無き戦友を慰霊する旧大日本帝国軍人の気持ちが理解できるのだろうか? 
2015・6・19 産経ニュース (1/4ページ) ロンドン=内藤泰朗 【戦後70年】
「カミカゼ・パイロットの子孫に会いたい」 父失った英元軍人が特攻隊員の遺族探す 「父と同じく勇敢だった…」
「記事内容抜粋」
第二次大戦末期、日本近海で神風特攻隊の攻撃を受け父親を失った英国人の遺族が、“敵”である特攻隊員の子孫を捜している。
彼らに会って心から和解し、自らの「戦争」に終止符を打ちたいと思ったからだ。
多くの人が犠牲となった大戦の終結から70年の今年、互いの国のために戦った世代に敬意を表し、一緒に平和を祈る“友”になりたいと願っている。
  「カミカゼ・パイロットの子孫に会いたいと思うまでには、いくつか不思議なことがあった」
英海軍の退役軍人、デービッド・ヒンキンズさん(70)は英中部ノースウィックの自宅で、こう語り始めた。
父親のジョージさんは、乗艦していた英空母フォーミダブルが1945年5月9日、沖縄沖で特攻隊の攻撃を受けた際、死亡した。デービッドさんが生後約5カ月のことだった。
中略
デービッドさんは退役後、宣教師となり、アフリカのボツワナとジンバブエに渡り、計6年間にわたり宣教活動に携わった。
英国に戻り、今年、在英国日本大使館に手紙を書いた。
該当の基地に当時、30人余りの特攻隊員がいたところまでは突き止めたが、彼らに子孫がいるのか、詳細はわからなかったという。 
「重要なのは過去に何が起きたのかをできるだけ正確に知り、そこから平和の道を模索することだ」 デービッドさんはこのように語り、将来、カミカゼの子孫と真の“友”となることを夢見ている。
 
いい話である。
お母さんはご苦労なさってお育てになったのだろう。
イギリス人が大日本帝国は戦った大東亜戦争の切欠を知っているとは驚いた。
折角の思い、叶えてあげたいと思うが、特攻隊員は殆どが独身青年、残念だが子孫はいないだろう。
2015・6・18 FOCUS-ASIA.COM 編集翻訳 恩田有紀 
日本海軍が真珠湾攻撃の計画練った司令部庁舎、耐震基準に満たず取り壊し―英紙
「記事内容抜粋」
英紙デーリー・テレグラフは16日、日本の海上自衛隊・鹿屋航空基地(鹿児島県鹿屋市)内にある司令部庁舎が、耐震基準を満たさないとして取り壊されることになり、解体工事が6月に始まる予定だと報じた。
中国・国際在線が17日伝えた。
この庁舎は4階建てで1936年に完成。
第2次世界大戦中に旧海軍鹿屋航空基地の司令部として使用され、1941年12月8日の真珠湾攻撃の計画が極秘に話し合われたとされる。
連合艦隊司令長官だった山本五十六の指示で米海軍の基地があるハワイ・パールハーバー(真珠湾)への奇襲の可能性が検討され、攻撃の計画が固まった後は同基地で秘密訓練が行われた。
鹿児島湾の地形が真珠湾に似ていたため、この地が選ばれたという。
 ※よく嗅ぎ付けたものである。
2015・6・17 THE PAGE 高越良一/ライター
元ゼロ戦パイロット・原田要さん「戦争の罪悪で世界一、非人道的な人間に」
「記事内容抜粋」
私ほど人の命をあやめた人間はいない――。
元ゼロ戦パイロットで戦争反対を訴え続けている原田要さんは、14日に長野市内で開かれた講演会でこう告白した。
「お国のために」と命を投げ出す覚悟で海軍に入ったが、気がついたら「世界一、非人道的な人間になってしまった」と悔いる。
折しも国会で安保関連法制の審議が熱を帯びる中、集まった300人の市民を前に、「戦争という苦しいことがもうない世の中に」と語りかけた。現在98歳と高齢のため、今回が「最後の講演」になるという。
  〈原田さんの講演の趣旨〉
中略
一緒にさまよっていると向こうに米兵らしい姿があるので、2人で拳銃を出し構えて行こうとしたら、負傷で左腕の不自由な私が拳銃を右手で用意しているうちにうっかり引き金を踏み、暴発してしまった。
その音を聞いた人影が「日本人か」と声をかけてきて、助かりました。
海軍の人間魚雷の基地だったんです。15~16歳の少年兵たちがいました。
私はその後デング熱にかかったりして40度の高熱を出し、気が付いたらきれいなベッドの上にいた。
これは捕虜になったに違いないと思って、ベッドから逃げようとしたら、「兵隊さんどうしました」と声がかかった。
日本の看護婦さんでした。
何回も命拾いをしてきました。
私は戦争を憎み、なくしていくために語ってきましたが、次の世代の人たちにもそれをお願いしたいのです。
 ※戦争は醜いものである。
誰も喜んで戦争をする訳が無いが、戦争は一旦、戦端が開かれると民族性が露骨に現れる。
大東亜戦争を調べるとシナ人、朝鮮人、アメリカ人の残虐性は日本人以上である。
日本は今、シナの侵略に直面している。
シナは現在も尚、チベット、東トルキスタン、内モンゴルに侵略し、他国民を無残な殺戮を繰り返している。
侵略された国の人々はもっと惨めで苦しい思いをしているハズである。
戦争は決して起こしてはならないが、相手が仕掛けて来る。
防ぎ様が無い場合もある。
喜んで戦争するのはシナ人民解放軍くらいだろう。
日本はシナ人の侵略に抗わず、戦争を放棄し、座して死を待てと言うのか? 違うだろう。
日本人は世界一素晴らしい民族、決して誇りを捨てるべきでは無い。
日本はシナの侵略に対し、怯む事無く、日本を守る抜く覚悟を示さねばならない。
日本に覚悟が無く、隙を見せれば、シナは必ず侵略して来るだろう。
2015・6・15 沖縄タイムス 
社説[戦後70年 地に刻む沖縄戦]ガマ 住民が見たものは…
「記事内容抜粋」
琉球石灰岩台地に点在する自然洞窟のことを沖縄では「ガマ」と呼ぶ。
沖縄戦でガマは、砲弾が飛び交う島に取り残された住民の最後の避難場所だった。
南城市玉城にある全長270メートルの「糸数アブチラガマ」。
修学旅行の中高校生を中心に年間11万人もの人々がここを訪れる。
ガマを案内するのは地元の住民らでつくる「ゆうなの会」のメンバー。
ガイドの一人で責任者の當山菊子さん(61)は「騒いだり、怖がったりしていた子どもたちが、入り口の狭い階段を下り、食器や薬品の瓶など遺物を目にしながら、真っ暗な地底に立つころには静かになる」と話す。
中略
沖縄戦の特徴は、組織の規律を失った軍隊と逃げ場を失った住民が戦場で混在し米軍の猛攻撃にさらされたこと、非戦闘員の犠牲が際立って多いこと、犠牲者が6月中旬から下旬に集中していることなどである。
これらの悲劇は、組織的降伏を早めていれば防げた悲劇だった。
 
今更、何が言いたのだ! 大日本帝国軍以外は国際法を無視、無差別攻撃を仕掛けたのは無慈悲なアメリカ軍、大日本帝国のせいにするな! 当時は戦争、大日本帝国は沖縄を楯にした訳では無い。
2015・6・14 産経ニュース 写真報道局 松本健吾 【ZOOM】
遺骨収集 ツルハシふるい50年 沖縄・糸満市「白梅之塔の壕」
「記事内容抜粋」
カツン、カツン-。
真っ暗な洞窟に岩をたたくツルハシの規則的な音が響く。
体にまとわりつく湿気、鼻をつくカビくささ。
時折、コウモリが頭をかすめて飛んでいく。
先の戦争で多くの住民を巻き込んだ国内最大の地上戦が繰り広げられた沖縄県の糸満市。
野戦病院だった自然の洞窟「白梅之塔の壕」では多くの人が犠牲になった。
負傷者を看病していたのは女学生で作る白梅学徒隊だった。
  「この壕は特に(攻撃による)落盤がひどく岩の下に骨が埋もれている。ほら、見て」。
国吉勇さん(76)=那覇市=が差し出したのは長さ6センチほどの人骨。
沖縄では終戦から70年が過ぎても手つかずの遺骨が少なくない。
中略
「暗い所にほったらかしではかわいそう。ひとりでも多く明るい陽の下に戻してあげたい」と国吉さん。
ツルハシを手にガマに潜る日々は続く。
 
沖縄には善人もいるのだ。
蝙蝠で思い出した。
名は明かせないが昔、田舎育ちの字を綺麗に書く頭のいい彼女だったが、確か25~6歳頃だったと思う。
蝙蝠が実在するとは思っていなかったのだ、これには驚かされた。
2015・6・14 ちばとぴ by  千葉日報
【戦後70年】「沖縄県民斯ク戦ヘリ」「後世特別ノ御高配ヲ」 自決前電文の大田中将 命日に故郷で供養式典
「記事内容抜粋」
太平洋戦争末期の沖縄戦で、自決する前に沖縄県民の死闘に対して特別の配慮を求める電文を送ったことで知られる大田実海軍中将を供養する式典が13日、生家のある千葉県長柄町高山の顕彰碑で開かれた。
この日は大田中将の命日で、参列者は戦後70年の節目の年に中将をしのんだ。
中略
大田中将は自決前の6月6日、海軍次官に「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と電文を送っていた。沖縄県民の命がけの協力に報いるよう訴える内容だった。
中略
式典には地元住民や大塚さんの仲間ら15人が参列。
三田住職の読経の後、参列者は顕彰碑に焼香して、手を合わせていた。
三田住職は毎年、慰霊法要で沖縄を訪れているといい「中将は沖縄の人を思い、後世の平和を願って電文を送ったと思う。今後も沖縄での戦いがあったことを、若い世代に伝えていきたい」と話している。
 ※沖縄左翼よ、大田中将の思いを裏切っていないか?
2015・6・13 産経WEST  矢田幸己  【戦後70年】
35回目の同窓会開催へ「平和」の意味に思い致し…大阪大空襲で卒業式中止の元児童
「記事内容抜粋」
先の大戦の大阪大空襲で卒業式が中止になった当時の国民学校は多い。
大阪市清堀国民学校(天王寺区、現・市立真田山小学校)の卒業生も米軍の無差別爆撃により、門出の日を奪われた。
そんな経験をした人々が終戦後、戦時中の学童疎開先で同窓会を開き、今月の開催で35回目を迎える。
戦後70年。学友との旧交を温めつつ、改めて「平和」に思いをめぐらせる。
  疎開の「戦友」たち  壮絶な体験共有  
中略
七條さんは「同窓会ができる平和のありがたみを感じている。
卒業式が中止になるのは、私たちで最後であってほしい」と話している。
 
日本国は戦後、国民の願いを叶えるべく努力して来たが、北朝鮮が日本国民の願いを無残にも引き裂き、多くの日本人を拉致した。
日本国は、シナが日本に侵略を仕掛けて来なければ、国民の願いは叶うだろう。
2015・6・7 ZAKZAKby夕刊フジ (1/2ページ) 黄文雄 
【中国の本性】日中戦争2つの真実 侵略戦争ではなく人道的、道義的介入だ
「記事内容抜粋」
「日中戦争は、中国に対する『侵略戦争』である」とは、戦後、米国と中国、ソ連が決めつけたことである。
日本の保守派にも「侵略戦争だった」と思う人は多いようだが、私はテレビの討論会で「中国内戦に対する日本の人道的、道義的介入」だと発言したことがある。
中国の歴史を振り返ると、満州人の清王朝が1644年に首都を北京に遷(うつ)してから、康煕、雍正、乾隆の3帝が約130年間、有史以来初めて人頭税を減免した。
最も幸せな時代だったとも言われているが、その後、人口が急増して資源の争奪戦が激化し、自然と社会環境は悪化し続けた。
18世紀末の「白蓮教徒(びゃくれんきょうと)の乱」から、20世紀の「文化大革命」まで、中国では事実上、約180年間も内戦が続いた。
「太平天国の乱」(1851年)では人口の5分の1、19世紀末の「回乱」(=イスラム教徒の蜂起)では人口の10分の1が消えた。1911年の辛亥革命後、清帝国が崩壊して中華民国の時代に入ると、内戦はさらに激化した。
中華民国の評論家、林語堂の説によれば、国民党と共産党が戦った20世紀の「国共内戦」でも「3000万人が消えた」という。
日中戦争について、中国は「八年抗戦」と名付けているが、国民党と共産党のプロパガンダに振り回されてはならない。
日中戦争の真実については、少なくとも以下の2つを指摘しなければならない。
  (1)日本が中国内戦の泥沼に引きずり込まれてから起きた本格的戦闘は、盧溝橋事件(1937年)から、武漢陥落(38年)までの1年余に過ぎない。
その後、日本の支援を得た北京政府や各政府は、中国の近代化に努めた。
道路や鉄道、港湾などのインフラ建設を進め、内戦で荒廃した農村を再建し、国民を飢饉から救済した。
医療・衛生環境を整備して疫病を退治した。
伝統文化を保存し、学校を建設した。
治安を維持し、衰亡の危機にあった中華世界を再生させた。
逆に、インフラなどを破壊したのは、国民党と共産党の武装ゲリラ勢力である。
  (2)40年代に入ってからの日中戦争は、実質的には北京政府をはじめ、各政府を統合した南京、重慶、延安の3政府による、日本と米国、ソ連の代理戦争だった。
日中戦争の背後で、南京政府の置かれた地域では経済と治安が非常に安定していた。
戦後たった7カ月で米価が500倍近くも上がり、ハイパーインフレになって国共内戦が再燃した。
中国を主軸とする代理戦争は、辛亥革命(1911年)からはじまり、戦後の国共内戦、朝鮮戦争、ベトナム、カンボジア内戦など延々と半世紀以上にもわたる。
日中戦争が、米ソ以外に日英独も加えたアジアの代理戦争であるという20世紀の歴史を見逃しては、本質を見失ってしまう。
 
これこそ大日本帝国がシナで進めた立派な政策、立派な行動を阻んだのが、シナを狙う欧米列強とロシアである。
2015・6・7 産経ニュース
戦没者遺骨返還、軍が断念 ガダルカナル撤退後、日露以来の方針転換 昭和18年、次官が見解
「記事内容抜粋」
第二次大戦で、日本が劣勢に立つ戦局の転機となった昭和18年のガダルカナル島戦撤退後、戦没者の遺体収容が困難なため、軍として遺族への遺骨返還の断念を事実上容認する見解を示していたことが、当時の陸軍次官の「口演要旨」から明らかになった。
陸軍では日露戦争時から、戦没者の遺骨を遺族に届けることを制度化していたが、ガ島撤退以降に形骸化。現在も大戦の海外戦没者約240万人のうち113万人分の遺骨が戦地に残されたままになっている。
専門家は「軍としての方針転換を示す貴重な資料だ」としている。
 ※大東亜戦争に勝利したのであれば、遺骨収集も可能だったろうが、負け戦、止むを得ない措置だろう。
遺族には申し訳ないが・・・誰も攻める事など出来ようがない。
2015・6・7 琉球新報 玉城江梨子
県立農林学校学徒、戦死10人名前判明 瀬名波さん調査 刻銘板設置へ
「記事内容抜粋」
沖縄戦中の1945年4月28日、東村内福地で米軍との銃撃戦で死亡した県立農林学校の学徒10人の名前が6日までに判明した。
昨年、東村宮城に建てられた「県立農林学校隊最期の碑」そばに、隊長を含めた11人の名を刻んだ刻銘板が設置される。
内福地では配属将校の尚謙少尉を含めた同校の「肉迫攻撃隊」の11人が戦死したとされるが、学徒の名前ははっきりしていなかった。
沖縄戦から70年が経過してようやく、犠牲者数としての「11人」から、誰が亡くなったのかが明記されることになる。
沖縄戦当時、農林学校の生徒だった名桜大学前学長の瀬名波栄喜さん(86)が、同窓会名簿、生存者の手記、新聞記事などの資料や遺族、他校の元学徒の聞き取りなどを通して10人の名前を明らかにした。
中略
刻銘される戦死学徒の氏名は次の10人。(敬称略)
  【3年生】安次嶺幸寿、大城喜孝、大城甚勝、我部操、狩俣栄
  【2年生】神谷仁助、島袋寿夫、新本弘吉
  【1年生】仲村禎信、平田清
2015・6・6 ZAKZAKby夕刊フジ ケント・ギルバート
【ニッポンの新常識】「ポツダム宣言受諾は無条件降伏だ」と言い張る議論は空論
「記事内容抜粋」
前回はポツダム宣言について書いた。
ポツダム宣言は条件を明示して、米国と英国、中華民国が日本政府に降伏を勧告した文書だ。
日本は条件を飲んで降伏した。
それでも「ポツダム宣言受諾は無条件降伏だ」と言い張る議論をいくつか読んだが、すべて空論だった。
昭和20(1945)年9月2日、日本はポツダム宣言で示された「降伏条件」を前提に、戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印した。
しかし、GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官マッカーサー元帥は、自分の占領政策が降伏条件に縛られることを嫌い、トルーマン大統領に直訴した。
トルーマン大統領は9月6日、「ポツダム宣言は双務的な拘束力を持たない」と言い放ち、「日本との関係は無条件降伏が基礎である」と明記した指令文書をマッカーサーに送った。
日本は条件付きで降伏したはずが、トルーマン大統領は「日本は無条件降伏だ」との主張を突然始めたのだ。
日本軍は完全武装解除した後だから、何も抵抗できない。
この経緯は、国立国会図書館のウェブ資料で読める。
この米国側のだまし討ちを隠すために、GHQは「ポツダム宣言受諾=無条件降伏」という洗脳を始めたのだろう。
中略
日本人は正直で誠実、正義を重んじ、嘘を嫌い、潔さを好み、恩義を忘れず、つらい過去を水に流せるからだ。
ただし、大国同士の外交の場面で「正直」や「誠実」が通用するのは日米間だけだと思う。
日本人はこの悲しい現実も忘れてはならない。
 
日本人の性が時として仇となす。
シナ、韓国、北朝鮮である。
アメリカが含まれるかどうかは分からないが、日本人は世界で最も素晴らしい人間性を持つ民族である事に違いない。
2015・6・5 ユーチューブ 
反日国家が恐れる、すごい国『日本』の真の姿!【青山繁晴】
「コメント」
ナシ 
 ※日本は大東亜戦争の総括を必ずやらなければならない。
2015・6・1 産経ニュース (1/3ページ) 産経デジタル 長浜明宏 【サイパン戦跡】 
「戦前も戦後も日本が開発した」 感謝を忘れないチャモロ人
記事内容抜粋」
戦後70年の歳月を経て、巨大な樹木が日本刑務所跡を侵食している。
分厚いコンクリートで堅牢に造られているが、雨水を溜めやすいようトタン屋根だったという。
熱帯地域にある米自治領・北マリアナ諸島のサイパン島。
相当に暑かったことだろう。
  「当時の現地人は委託統治に不満だったと思います。階級制度がありましたから」。
戦跡巡りのガイドを務めるバルシーナス米子さんが話す。
夫はミクロネシアの先住民であるチャモロ人。
夫の父親から1920年に始まった日本の委任統治領だった頃の話をよく聞かされるそうだ。
「第1国民が日本人、第2国民が沖縄からの移住者、第3国民が現地のチャモロ人やカロリン人、第4国民が朝鮮人だった」と米子さん。
当時、国際連盟が制定した委任統治条項で現地人に酒類を提供することが許されていなかった。
隠れて酒を飲み、刑務所に入れられる現地人も多かったという。
  砂糖王の顔に弾痕
内地にいた松江はサイパン陥落の知らせに銅像も当然破壊されたものと思っていた。
戦後にサイパンを訪れた息子から銅像が無事だったことを聞き、大変驚いたそうだ。
     
戦後70年に合わせてサイパン島を訪問した。
激戦地に残る戦跡を紹介する。
 
日本は多くのアジア諸国を統治したが、欧米列強の植民地政策とは全く違い、確り区別する必要がある。